「おれは 革新系として登っていたと思ったら いつのまにか降りていた」
な… 何を言っているのか わからねーと思うが おれも 何をされたのか
わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった… 催眠術だとか超スピードだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…
沖縄はアメリカの統治下であったので当時の革新系は 日本復帰運動を進めていた。
保守すなわち当時の沖縄自由民主党はアメリカ統治を肯定する現実路線であった。
沖縄独立を唱える勢力もあったが少数派で、夢物語だと無視されていた。
父は教員だったので、当然 革新系で左翼に分類される思考であった。
日本復帰運動の一環として祝祭日には日章旗を玄関に掲げていた。
俺も沖縄は日本の一地方であると思っていたので日章旗を正月に掲げるのは当然とし
日本復帰運動のデモ行進に何度も参加し、左翼だと自認していた。
当時の総理大臣であった佐藤栄作の努力で沖縄の日本復帰が決まった。
すると保守・革新ともに行動が反転した。
俺は沖縄の日本復帰を喜び、日章旗を掲げるように父に求めたが拒否された。
革新系である父は正月に日章旗を掲げることを止めた。
米国統治を肯定していた沖縄自由民主党は、掌を返して日本政府との一体を
唱え始めた。
革新系の友人たちは 反米から反日に簡単に路線変更したが、日本復帰運動を
真剣に唱えた俺は変化できなかった。
日章旗を揚げると革新系の友人たちは私を非難し、離れていった。
父とも政治の話はできなくなった。雑談は普通にできるが政治色を出すと対立になる。
変化できない俺は勝者なのか?敗者なのか?
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言われています。
パンフレットです。
入口の乱杭です。(工事中:完成したら杭が密集する)
陣地構築の様子を側面から見た簡易図をご覧ください。
三国志やローマ帝国戦史にも登場する紀元前からある基礎的な陣地構築です。
三角に堀を作り、出た土を内側に盛り上げて土壁を作ります。
次に堀の外側にランダムに杭を打ち込み、先を削りロープで結束、敵の足をかけて
転倒させ、鋭利な杭の先端で傷つけます。堀に近寄る事を困難にするのが乱杭の目的です。
時間があれば杭の間に竹串など鋭利な物を刺して足裏を傷つけるようにするとより効果的な
乱杭になります。
攻める側は飛んでくる矢を避ける盾係と薪や枯れ枝を束ねたものを投げ重ねて乱杭と
堀を埋める係、弓を牽制するための弓兵が必要
なので 守る側の3倍以上の兵力が必要となるのも分かります。
深く打ち込まれた杭は簡単に抜けないので攻城兵器の接近も困難にもなる。
このように守りを堅固にするのが陣地構築です。
吉野ケ里遺跡でも杭の丸い穴が堀の側に 並んでいるのが確認されているようです。
もう一度入口の乱杭の復元をみてもらうと 敵の方向が逆です。
卑弥呼の時代から大陸と交流があり、基礎的な陣地構築は伝わっていると思うし。
吉野ヶ里の王がわざわざ敵に利し、味方を困難にするような陣地構築で環濠集落を
作ることは考えにくい。
これば復元のミスか?集落内の住民が逃げないように収容所になっているのか?
環濠集落ではなく吉野ケ里は城で、村人の集落は別にあった?
考えるほど分からなくなってきます。
ご意見・ご指導をお願いいたします。
パンフでは乱杭の事を逆茂木(さかもぎ)と称している。
混同はよくあります。
図をご覧ください。
逆茂木は漢字のままで木を切るのではなく倒して茂らせ壁を作る。
細くて曲がる木は曲げて杭で敵の方向に固定して縛る。
間は切った樹木を並べて縛ることで連続した壁ができ、樹木に囲まれた山城の簡易的な
防御施設が完成する。
材木は燃えやすい欠点があるが生きている木々は燃えにくいし倒しても
一部が繋がっていれば再生する。
旧日本軍の陣地構築教本にも逆茂木の使い方が記述されていて、
縄文弥生から現代まで逆茂木は普遍的な陣地なのである。
尖った丸太を組み合わせて作ったバリケートを逆茂木と呼ぶこともあるので
尖った乱杭を逆茂木と混同するのでしょう。
吉野ケ里遺跡では乱杭を1mくらい露出して復元したようにしている。
1mくらいの尖った杭に刺さるような不注意の兵士は少ない。
乱杭はロープを張り巡らして足をかけ転倒させることが目的であることを述べた。
20cm-30cmくらいの杭が雑草に隠れると転倒の危険が増す事は誰でも分かる
武器を振り回しながら走ると罠が見えないのでほぼ確実に転倒し負傷する。
転倒した兵士の後に続く敵は罠を警戒しながら進むので突撃は不可能になる。
騎兵突撃(cavalry charge)を防ぐために槍襖(pike)の補助として長めの
尖った杭を併用することは大陸ではあったが日本では騎兵突撃は戦法に
ないので尖った長い杭の利用は少ない
吉野ケ里遺跡では乱杭として露出が20-30cmくらいまで打ち込むべき
だと考える。
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